会報 NO.88



「奥田庄二先生探訪記」
(医)横美会ヨコ美クリニック  今川賢一郎

植毛のパイオニアとして世界的にも著名な我々の大先輩にもかかわらず、今まで一切のプロフィールが不明だった奥田庄二先生の消息が判明しましたので今回会員の皆様に報告したいと思います。

1959年ニューヨークの皮膚科医Norman Orentreichがパンチ式植毛法を発表し、ジョン・ウェインやフランク・シナトラなどの有名人が施術をうけたこともあって当時一大ブームが起こったということです。
この術式は以後30年間にわたり世界の標準術式となりました。
奥田庄二先生が全く同じ手技の植毛法をそれより20年前に報告している事実が、1970年にドイツの外科医H . Friederichによって確認され、Norman法と呼ばれていたこの施術はOkuda-Orentreich法と改称されました。

1939年に『 日本皮膚・泌尿器科雑誌 46巻6号 』に投稿された奥田先生の5部にわたる大きな論文は、こんな文章から始まっています。

「毛髪ノ移植ニ就テハ極メテ古クヨリ多大ノ興味ヲ以テ研究セラレテ居ルガ、其大部分ハ臨牀的方面ニ於テ皮膚ノ移植ニ附隨シテ行ハレテ居タニ過ギナイ。」そして
「余は約10年前ヨリ生毛ノ植毛ニ就イテ研究シ、特殊ノ方法ヲ案出シ、・・・甚ダ満足スベキ結果ニ達シタ・・・」と結論づけています。

先生はヒトをはじめ、ウサギや幼乳牛、モルモットなどによる動物実験を重ね、移植したヘアの生着性を確かめ、組織学的に、また神経線維の変化に至るまで追求しています。
ヒトにおける臨床的な結果の要点をまとめると次のようになります。

@直径1.5〜5.0oの金属円管による特別製のメスを考案・製作した
Aそれを「円鋸」と名づけたが、通常は2.5〜4.0o口径を使用することによって、良好な結果を得ることができた
B頭髪、眉毛、ヒゲ、アンダーヘアなど200例以上の臨床の結果、ほとんど100%のヘア生着を見た
Cヘア生着が成功したのは、自己の生毛植毛のみ。他人毛植毛は、血族関係や血液型を慎重に選んで行っても必ず失敗した。移植毛は壊死を起こして、約4週間後に消失し、ヘアも変性破壊して脱落し、存続や再生はまったく認められなかった

この論文で先生は植毛の基本的理念であるdonor dominanceをはっきりと見通しておられます。ただ残念なことにその当時では当然だったかもしれませんが、施術は瘢痕性脱毛症や無毛症に対してであり、男性型脱毛症は治療すべき状態とはみなされなかったようです。
奥田論文が発表された当時は、日本は第二次世界大戦前の混乱期にありました。そのためかこの輝かしい業績は、最近まで日本国内でさえも知られることのないまま、ひっそりと埋れてしまいました。

ちなみに私がこの論文の存在を知ったのは1992年のロサンゼルスにおけるHair Replacement Surgeryのシンポジウムの際に、AGAの分類で有名な植毛医Norwoodからでした。
Friederichによって奥田論文の存在が欧米で知られたあとでも、Orentreichの論文と奥田論文の関係が必ずしもはっきりとはしませんでした。
Orentreichは現在に到るまで自分の方法はまったくのオリジナルだと主張しており、彼の方法は奥田論文を下じきにしたのか偶然まったく同じ方法だったのか不明でした。
植毛界の重鎮で私の友人でもあるオーストラリアのShiellはその点をはっきりさせるためにも奥田論文の完全な英訳が必要だと感じ、2003年に私にその作成を依頼してきました。
奥田論文は戦前の旧字体で書かれており、また50ページに及ぶ長さのため、作業は平易なものではありませんでした。
そこで医師でありアメリカに留学経験もある父にも協力を仰ぎ、仕事の合間を縫って取り組み、何とか完訳にこぎつけました。
この英訳は後日国際毛髪外科学会会誌に紹介されることになり、2004年バンクーバーで開催された国際毛髪外科学会において、「特別賞」をいただいた次第です( 写真1 ) 。


写真1 国際毛髪外科学会会報 Forum 2004年 1/2月号


長い間奥田先生は第二次大戦で戦死したと聞いておりましたが、本当のところが全くわかりません。
どうやら奈良県出身で、学位は大阪で授与されたらしいということから、数年前に大森喜太郎先生を介して大阪大学皮膚科や形成外科の先生方に問い合わせていただいたのですが、その時には先生の出身大学はおろか医籍も存在しないということで全く手がかりがつかめませんでした。
戦前の医専や旧植民地の医大出身という可能性も考えられ、それ以上の調査もむずかしく半ばあきらめておりましたが、今年7月下旬にアムステルダムで開催される国際毛髪外科学会総会で大阪大学の皮膚・毛髪再生医学講座の乾重樹准教授が奥田先生の業績と経歴について発表されることを知って早速連絡をとってみました。
乾先生からの返事によると、昨年大阪大学図書館において昭和5年の医籍名簿の中に奥田先生の名前を偶然にも発見し、それをもとに天理市で眼科を開業されているお孫さんにあたる奥田隆章先生にたどりついたということでした。
灯台下暗しとはこのことです。
早速乾先生にお願いして一緒に奥田眼科を訪問し、奥田隆章先生 ( 奥田眼科院長 ) と隆彦先生 ( 近畿大学医学部奈良病院麻酔科教授 ) 御兄弟と隆章先生の奥様にお会いすることができました( 写真2 ) 。


写真2 向かって左から乾重樹先生、奥田隆章先生、奥田隆彦先生


奥田眼科はJR奈良駅から桜井線に乗り3つ目の櫟本 ( イチノモト ) 駅から徒歩10分の天理市楢町にあります( 写真3 ) 。


写真3 奥田眼科旧正面玄関


診療所の前の通りはそれほど広くないのですが「壬申の乱」 ( 672年 ) の時に天智天皇の軍隊が行軍したとされる由緒のある道とのことで、自宅の母屋も「大塩平八郎の乱」 ( 1836年 ) の年に建ったとのことでした。
御家族の話から以下のような奥田庄二先生の経歴が判明しました。


『 奥田庄二( おくだしょうじ )( 1886〜1962 )
明治19年12月森本 ( 現森本町 ) の村井国蔵の次男として生まれる。後に楢町の奥田家に入る。
早くから医術に志し、学校にも行かず、医学の大家の書物を読破し、全くの独学で苦学力行してその研究を深め、学問の奥底を究めた。
 実地研究のため東京三井慈善病院や順天堂病院などで数年間研修を重ねて大正元年 ( 1912 ) 医師国家試験に合格し、同年楢町の自宅で奥田病院を開業。以後眼科治療を主として一般診療を行った。
 その治療法は独創的で特に睫毛乱生に口唇粘膜移植を併用する方法は、奥田法と呼ばれ現在でも行われているとのことである。また世界に先駆けて毛根移植手術を行った。昭和16年 ( 1941 ) 2月医学博士となる。昭和37年5月25日自宅で死去した。77歳。 』 ( 写真4 )


写真4 奥田庄司先生


先生がこの地に開業してから今年で100年近くになりますが、広大な敷地に自宅と併設された診療所は、庄二先生の時代には皮膚科、眼科の他に外科を標榜し眼科手術の他にもヘモやアッペなど一般外科手術も行われていたとのことです。
旧入院病棟に隣接して実験棟があったとのことで ( 現在は更地 ) マウスなどの動物実験データはそこで得られたもののようです。
ヒトでの他家移植などの実験的植毛は地主と小作人といった当時の身分制度ゆえに行えたのではないかとは隆章先生の御意見でした。
御兄弟の話ではその当時診療所内に植毛のビフォー・アフターの写真が数多く掲げられており、子供ながら気味が悪く感じたとのことです。
ただ庄二先生は御家族に植毛についてはほとんど話をなさらず、そのためごく最近まで先生のその分野についての業績については御存知なかったとのことでした。

お話のあと診療所と倉庫に案内していただきましたが、庄二先生の手術室もほとんど当時そのまま残されており、無影灯の代わりの明り取りの天窓がとても印象的でした( 写真5 ) 。


写真5 旧手術室


また現在の駐車場のすみに先生が往診用に使用なさっていた人力車が登録番号とその専属運転手の名前とともに保存されているのは驚きでした( 写真6 )。


写真6


御兄弟も数10年間立ち入ったことがないという数棟の倉庫の中には当時の書類や文献、医療器具、薬品等が所狭しとほぼそのまま保存されており、ツタンカーメンの墓の探検さながらの興奮をおぼえました。

ホコリをかぶった多くの植毛や眼科関係のビフォー・アフター写真とともに「美容整形の御相談に応じます」というとても興味深い看板も発見しました( 写真7, 8, 9 )。


写真7


写真8


写真9


おいとまする際には自宅からほど近い奥田家代々の墓地に出向いて庄二先生の墓参をはたすこともできました( 写真10 )。


写真10 筆者


庄二先生は土葬されていらっしゃるとのことですが、この地方では最近までそれが一般的だったとのことです。
なお今回は残念ながら倉庫の中に存在していると思われる庄二先生が円鋸と名づけたオリジナルのトレパンを発見することができませんでしたが、いつか会員の先生方にもそれを披露できればと思います。


追記
日本人のパイオニア達について

奥田先生の他にも3名の日本人医師達がOrentreichの論文より前に植毛を行ったことが知られています。
笹川正男先生(1887-1932:慶応大学皮膚科教授)(ササガワでなくササカワ)(写真11)はヘアを2つに折り曲げ瘢痕性脱毛症の頭皮に挿入し10ヶ月間の経過観察を行い(これを毛幹挿入法と呼んでおります)、1930年に結果を発表しました。人工毛植毛に似た概念だと思います。
田村一先生(1897-1977:慶応大学泌尿器科教授)は東京女子医大勤務の時にアンダーヘア再建などに多くの単一毛植毛を行い1936年、1943年にその結果を発表しました。もしこれらが当時欧米に知られていたらおそらく植毛の歴史は現状と違ったものとなり、パンチ式植毛法が30年以上標準術式であり続けることはなかったと想像されます(写真12)。


写真11 笹川正男先生


写真12 田村一先生


藤田恵一先生(防衛大学皮膚科教授)は多摩全生園勤務中に点状生毛植毛(現在のミニグラフトだろうと思います)を用いてハンセン病患者の眉毛再建術を行っています。
そして頭髪を眉に移植すると毛周期が変化すること(この現象はRecipient influenceと呼ばれています)、移植毛を4日間冷蔵保存した場合の発毛について、また他家移植についても1953年、1954年に発表しております(なお藤田先生は教授退官の際の不祥事のためか情報が少ないのですが、新しい情報を御存知の会員がいらっしゃいましたら是非お教え下さい)(写真13)。


写真13 藤田恵一先生


笹川先生は御病気のため早世しておりますが、田村、藤田両教授は教授就任してから植毛の研究は続けていないようですがその晩年の時期にはOkuda- Orentreich法は欧米で盛んに行われていました。そのことを両先生が知っておられたらどのように感じられたのだろうかという点は非常に興味のある所です。

残念ながら我々の先人達の業績はこうして中断してしまって現在の植毛技術の基礎はOrentreichから始まる欧米流のものです。
その意味で私達は日本人パイオニア達の直接の子孫とは言えませんが、かつてこのような偉大な先駆者達がいらっしゃったことを会員の皆様に知って頂きたいと思い筆をとったしだいです。



奥田庄二先生のオリジナルパンチ